ギックリ腰の悪夢

その日は十一月半ばだというのにやけに冷え込み、布団から出るのがいつにも増して億劫に感じられる日だった。
は起き出す気になれず、快適な布団の中からテレビのワイドショーでも観てダラダラと過ごそうと思い、テレビのリモコンを探していた。
辺りを見回すと、目当てのリモコンは、少し無理をして体を捻って動かせば届く場所にある。

(いちいち布団から出ていくほどの距離じゃないか……)

この考えが全ての元凶となるのだが、その時の彼女は知る由もない。
はリモコンに手を伸ばそうとして腰を捻り、無理な体勢を取った。

(もうちょっと、あとちょっとで届く……)

指先がリモコンの冷たさに触れた瞬間、ギクッともガクッとも聞こえる嫌な音がして、直後、の腰に、これまでに経験したことのないような鋭い痛みが走る。

「痛ぁぁぁーいっっ!」

……絶叫。
漫画などでよく、頭などをぶつけたキャラクターの目から星が飛び出している表現があるけれど、あれは強ち嘘ではない、とは思った。現に、この時の彼女の視界には星が舞っていたのだから。
痛みで涙が滲む。恐る恐る体を動かそうとしてみるが、少しでも動こうものなら悲鳴混じりの激痛が走る。痛みで上手く働かない思考回路を無理やり回転させ、何が起こったのか理解するまでには時間がかかった。

(そうか、これがギックリ腰か……)

医者に診せなくても、十中八九間違いないだろう。
そう結論付けたは、苦笑して大人しく布団の中に横たわった。
とにかく、どうしようもなく腰が痛い。

「うぅ……」

起き上がることはおろか、身体を1ミリさえ動かすことができない。
幸いにも彼女は独り暮らしではないので、夫に連絡して帰ってきてもらうのが一番なのだろうが、生憎手の届く範囲に携帯電話は見つからなかった。
普段から健康で頑丈なことが取り柄のは、寝込むほどの怪我や大病をしたことはなく、身体が思うように動かないなどという経験はこれが初めてである。

(こんなに痛くて、、死んでしまうんじゃ……)

脈打つような痛みと恐怖で枕に顔を突っ伏して泣くこと数分。弱り目のに追い打ちをかけるように、新たな問題が浮上した。





「トイレに行きたい……」

腰とは別に、下腹部に鈍い痛みにも似た重みがある。考えてみれば、起きてから一度も用を足していない。
寝起きの膀胱は既にパンパンに膨らんでいた。
が、起き上がることすら叶わない今の状況を考えると、手洗いへ行くことなど夢のまた夢だ。

(どうしよう……)

意識し始めると、尿意はもう無視できるものではなくなってきた。
しかも、我慢しようと下腹に力を入れると腰に響いて、下半身に刺すような痛みが走る。

「あう……っ」

思わず悲鳴が洩れ、慌てて下腹部に込めた力を抜けば、筋肉が弛緩した隙を逃さずに、少量の尿がショーツを濡らした。じんわりと温かな感触が広がる。

(あちゃー……)

このままでは、全て放出してしまうのも時間の問題だ。
近くにバスタオルなどの吸水性るものがないか見渡してみたが、残念ながら適当なものは見当たらない。

(うぅ、もうお腹が痛いのか腰が痛いのかわからないよ……)

じわじわと、下腹部に強い痛みが押し寄せてくる。体さえ自由に動くなら、体勢を変えるなどして尿意を紛らすこともできるのだが、まさに布団に磔にされたような状況では為す術もない。
今のにできるせめてもの抵抗は、はしたないと思いつつも、股間を手のひらで抑えるくらいだ。

(まぁ、いっか、誰も見てないし)

非常事態だし、と自分に言い聞かせつつも溜息が出る。
それから十分、二十分と、時間だけが経過する。
下腹部の圧迫感は強まる一方で、早く解放しないと膀胱が破裂するのではないかと思うほどにまで達していた。

(このまま我慢してたら、私、絶対に死んじゃう……)

そこまでいかなくても、度を越した我慢が身体に悪いのは明らかだ。
動けないのだから仕方ないと割り切って、このまま布団の中で放尿し、後で少し痛みが引いた時に片付けてしまえば良いのだろうが、いくら怪我の所為とはいえ、いい歳をして厠以外の場所で排泄行為に及ぶというのはあまりにも恥ずかし過ぎる。

(だけどなぁ……)

壁にかかった時計を見上げると、まだ午前十一時前だ。夫である土方が仕事を終えて帰宅するのは夕方か、もしくは夜の遅い時間であり、無論そこまで持ち堪えていられる筈がない。
それに厠へ行けないのはこの一度きりではなく、下手をすれば数日は付き合わねばならない問題なのだ。

(くぅ、そろそろ限界なんだけど……)

下腹を刺すような痛みが走り、はぎゅっと瞳を閉じる。涙が浮かぶ程の痛みであった。

(もう無理……)

意を決してこのまま力を緩めようかと思った、その時だった。

「おい、、いるか」

ガラリと玄関の戸が開く音がして、聞き慣れた声がする。

「なんだ、いねぇのか……」

舌打ち混じりの声が、しかし今では天啓のように聞こえる。
助かった―――。
そう思った。それで思わず、声を上げた。

「十四郎さん……!あうっ!」

体を揺らした拍子に、腰にズキンと鋭い痛みが走り、その痛みの余り、尿意のことをすっかり忘れてしまう。
ジュワ……という音が微かにの耳にも聞こえ、あっと思った時にはもう遅かった。
ぬるま湯に似た温かさがショーツに拡がり、やがてシャーッという水音と共に股関節一帯へと濡れた感触が広がってゆく。やがてそれは背中のほうまで達し、まるで湯船に浸かっているかのようだ。

(あっ、やだ、お願い、出ないでえぇ……っ……)

布団の中がどうなっているのか確認するまでもなく、背中の辺りまでぐしょぐしょに濡れているのがわかる。
あともう少しだったのに……。は悔しさに唇を噛んだ。鼻の奥がツンと痛んで、瞼に涙が盛り上がる。

「……っく。ひっ……く、ふえーん……」

敷布団には、きっと大きな世界地図が描かれているに違いない。あまりの情けなさと惨めさに声を殺して泣き声を上げたのと、襖が開かれたのはほぼ同時だった。

、まだ寝てんのか」
「と、十四郎さぁん……」
「何だ、どうした?」

不機嫌面を隠そうともしないまま部屋に入ってきた土方だったが、の泣き顔を見て何があったのかと訝しげな表情になる。

「それにしても何か臭うな……」

鼻をくんくんと動かして、その臭いの元がの寝ている布団だと気付くと、、捲ろうとして手を伸ばした。それを阻止しようと、は肩口のところまで布団をぎゅっと掴んで引き上げる。

「嫌あぁ、見ちゃだめぇーっ!」
「ったく、何だってんだよ……」

いくらが足掻こうと、いつにも増して非力な彼女では大人の男の腕力に敵う筈もなく、あっさりと布団を引きはがされ、びしょ濡れになった下半身と敷布団があらわになる。

「え、お前まさか……」
「だって、動けなかったんだもん……」

言うや否や、再びしゃくり上げるに、土方もただ事でないのを察したのか、傍らに膝をついて優しく声をかけた。

「ったく、どうしたっつーんだよ。ほら、怒らねぇから言ってみろ」
「本当に……?」
「ああ」
「あのね……」

実は、ギックリ腰になっちゃったみたいで……。
は萎れた様子でそう言って、深い溜息をついた。

「ずっと我慢してたんだけど、十四郎さんが帰ってきたと思ったら安心して力抜けちゃって……」
「そうか……」

土方も呆気に取られた様子だったが、それなら仕方ないという風に首を振って、取り敢えず着替えなきゃなと、妻の介抱をするべく立ち上がった。





「まさか、こんな理由でお前の下着を脱がす日が来るなんてな」

洗面所からお湯で濡らしたタオルや着替えを持って戻ってきた土方は、のパジャマと下着を脱がしながら揶揄交じりの声音で呟いた。

「恥ずかしいから、言わないで……」

身動きの取れないは、ただただ羞恥に顔を真っ赤に染めながらも、されるがままになるしかない。
土方は手早く汚れた部分を拭い、横臥したままのに新しい下着とパジャマのズボンを穿かせてくれる。濡れた布団は洗濯機に放り込んだようで、小柄で華奢な体つきのは軽々と抱え上げられ、普段土方が使っている布団へと寝かされた。

「さて、一先ずはこんなところか……」
「ごめんね、十四郎さんにオネショ布団の始末までさせちゃって……」
「ん?ああ、別に気にすることはねぇさ」

傍らで紫煙をくゆらせながら、「しかし、アレだな……」と土方は独りごちた。

「俺はちょっと厄介なヤマに関わってて仕事は休めねぇし、その間、一人じゃ便所にも行けねぇっていうのは困るよな」
「うん……」

しかもは、着替えに起きたついでに遅めの朝食を摂っているところだった。
食べたらまた厠へ行きたくなるとわかっていても、食事を摂らないわけにはいかない。

「そうだ……」

小動物のようにスープを啜っている傍らの妻を見遣り、土方は何か思いついたように携帯を取り出した。

「あーもしもし俺だ、山崎か?あのさ、一つ頼みがあんだけど……」

土方は電話しながら襖の外へと行ってしまったので、には彼が山崎に何を頼んだのかはわからない。

(仕事、休んでくれるのかな……)

などという淡い期待は、数分後、土方が山崎を従えて戻ってきたところで儚く消えた。

「副長ぉー、頼まれ物を持ってきたんですけど、こんなもの何に使うんですか?」
「何に、って、そのまんまだよ。うちの奥さん、ギックリ腰で動けねぇからさ」
「うわぁ、それは大変ですね」

は二人の会話に嫌な予感を感じつつも、布団に横たわって息を潜めていた。
やがて襖が開いて、土方と山崎が部屋に入ってくる。
山崎の手にあるものを見て、は言葉を失った。

「ほら副長、ちゃん、ショックそうな顔してますよ」
「んなこと言ってもしょうがねぇだろ。あと、このことは隊の奴らには決して喋るなよ」
「勿論、わかってますって」

二人が声を低くして頷き合う。は震える唇を開いた。

「十四郎さん、それ……」
には悪りぃが、これしか良い案が思い浮かばなかったんだよ」

山崎が持っていたのは紙オムツだった。パッケージを見ると介護用らしく、履くタイプの紙パンツなのだが、そんなものを着けている自分の姿を想像すると、恥ずかしさや惨めさ、情けなさで顔を上げられない。

ちゃん、ギックリ腰で酷いのは最初の二、三日だけらしいから……」

山崎が慰めの声をかける。

「そうそう。動けるようになったら、俺のいねぇ間に自分で始末すればいいじゃねぇか」

土方も、フォローのつもりで言葉をかけるが、の表情は沈んだままだ。

「まぁ、お前が嫌がるのも無理はねぇけどよ」
「じゃあ副長、オレは先に現場に戻ってますんで……」
「おう。俺もすぐに行くから」

山崎は、「じゃあちゃん、お大事にね」と一声残して、仕事へ戻って行った。

「というわけで、俺もすぐに仕事に戻らなきゃならねぇ。だから、早いとこ、これを穿け」
「嫌だ、恥ずかしいもん……」
「そうは言ったって…じゃあお前、厠はどうするんだよ」
「我慢するからいい」

とは言いつつも、の体内では二度目の排泄欲求が首をもたげつつある。朝食で摂った水分が膀胱に溜まり始めたのだ。
どことなく落ち着かない様子のを見て、土方も薄々勘付いた。

「その割には、さっきからやけにそわそわしてんじゃねーか」
「べ、別に、いつもと変わらないわよ」

の声が微かに上擦る。

(これだから警察官は……)

内心、舌打ちしたい気分になりつつも、図星を刺されるのも癪なので、何気ないフリを装ってぷいっとそっぽを向いた。
土方が聞えよがしに溜息をつく。

「あのなぁ。俺だって、一日中についていてやれるっていうんなら、こんな提案しねぇよ」
「……」
「どうせ二、三日もすれば痛みも引いて動けるようになるんだから、今日一日くらい我慢しろって」
「うぅー……」

としては、土方の言う事が尤もなので、上手く反論することもできない。
それに、履くタイプなら少なくとも、あの赤ん坊のような恥ずかしい格好をさせられずに済むのだから、妥協しても良いかと、気持ちが流れつつある。

(また、おしっこしたくなっちゃったしなぁ……)

あまり力を入れられないので、尿道の括約筋が緩んだ隙に、少量の水が下着を濡らした。

(あう、このままだと、またさっきみたいに派手にお漏らししちゃう……)

はそこで、渋々といった表情を作り、「わかったわよ……」と不貞腐れた声を出した。
土方は「手間かけさせやがって」と溜息交じりに呟き、のパジャマに手をかける。
着替えを手伝ってくれるつもりなのだろうが、少しチビッてしまったのを知られるのが嫌で、は「自分でやるから」と必死で抵抗した。
だが、ギックリ腰の不自由さは生半可なものではなく、結局は彼に任せるしかない。
土方はのショーツに手をかけ、ふと指を止めてクロッチの部分をなぞった。
羞恥なのか快感なのかわからない、艶めいた声が閉じた唇から洩れる。

「あ……」
「ほら、やっぱり漏らしてんじゃねーか」
「違うもん、ちょっと出ちゃっただけだもん……」
「往生際の悪いやつだな、お前……」

ぶつくさ言いながらも、に紙オムツを履かせ終える。

「何だか、ヘンな感じ……」
「結構分厚いのを買って来させたからな。3〜4回分は吸収するって書いてあるぜ」

ほら、とパッケージの該当部分を示すと、は「恥ずかしいからそんなの見せないで」と顔を覆った。

「濡れたままでいるのは気持ち悪いと思うけど、俺が帰るまで少し我慢してろよ」
「うん……」
「できるだけ早く帰ってくるから」
「ん……」

体に響かないように優しく頭を撫でてやると、は観念したようにしおらしく頷いた。





それから二日は紙オムツの世話になっただが、ギックリ腰を発症してから三日目には、何とか自力で起き上がれるまでには回復した。

「これでようやく普通の下着で過ごせるわ」

そう言って、安堵の溜息を洩らす

「そうかい。チビのお前には紙オムツも似合ってただけに残念だ」

土方が揶揄うように返事をし、以後、は暫くこの時のことをネタに揶揄われ続けるのだった。

ギックリ腰の経験はまだありません。