家の鍵が開いてなくて

早めにクラブの練習を終えて自宅に帰ると、玄関の前に小さな人影を見つけた。

?」
「パ、パパ……」

十歳になる愛娘のは現在、インターナショナルスクールに通っている。通学用のバッグを片手に、彼女はいつになくおどおどとした視線で日向を見上げた。

「どうした、家に入らないのか」
「ママ、いないの。それでかぎが、あいてなくて……」
「なんだよのヤツ、鍵かけたまま出掛けたのか」

自分は合鍵を持っているからいいけれど、娘が帰ってくる時間くらい予測できただろうに。

「そっか、じゃあお家に入れなくて外にいたんだな」
「う、ん……」

はワンピースのスカートの裾をぎゅっと掴んで、必死に何かに耐えている様子だった。

「どうした、?」
「おトイレ、行きたい……」
「えっ……」
「ずっと、がまん、してるの」

下腹が痛むのか、彼女は苦しそうに小さな体を曲げている。

「ちょっと待ってろ、すぐに鍵開けるから」

そうは言ったものの、急いでいる時に限って家の鍵が見つからない。スポーツバッグの奥底に鍵らしい手応えを感じてはいるのだが、何かが引っ掛かっている。舌打ち混じりに引き抜いて、鍵を玄関の鍵穴に差し入れた瞬間、傍らでがあっと声を上げた。

「あ、やっ……」
?」
「やだ、出ないで……」

いつもは十歳の少女とは思えないほど落ち着き払っている、可愛くて聡明な自慢の娘。そんな彼女が取り乱す姿を初めて目の当たりにし、日向のほうが戸惑う。

「あっ……」

の体が一度大きく震えたかと思うと、つーっと一筋、細いふくらはぎを透明な水滴が伝った。

「いや、パパ、見ちゃダメぇ……」

言うや否や娘がしゃくり上げる。嗚咽と共に、脚を流れる水は幾筋にも増え、やがてバシャバシャと音を立てながらコンクリートに叩き付けられた。

「ご、ごめんなさい……っ!」

叱られると思ったのだろう。は肩を竦めたまま何度も涙混じりにそう繰り返す。

「いや、俺は怒らないよ。ママが悪いんだよな」
「でも、もう、十歳だよ……?」
「まだ十歳だろ。いいんだよ、そんなの気にしなくて」

やがて激しい水流が止み、ポタポタと雨だれのような雫を落とす頃、日向は手元のスポーツバッグからタオルを取り出して娘の脚を拭いてやった。

(派手にやったな……)

ワンピースの前後は勿論、靴下や靴の中までぐっしょりと濡れている。途中で抱えて家の中に連れて行くべきだったかもしれない。

「シャワー浴びて着替えような」
「うん……」

されるがままに手を引かれる従順な娘は、いつもの気丈で勝気な少女とは別人のようだ。これはこれで年相応で可愛い、と日向は思うのだが、にとってはショックだったろう。
家の中に入っても彼女は泣き止まない。抱きかかえるようにしてバスルームに連れて行き、濡れたワンピースをたくし上げ下着を脱がそうとした刹那、「嫌ぁっ……」と小さな悲鳴を上げては両手で顔を覆う。

、どうした?」
「まだ、オシッコ出る……」
「そっか、じゃあそのまましような」

どうせワンピースもショーツも洗濯するのだ。それにここは風呂場なので、床が汚れても構わない。

「あっ、や……」

微かな水音を立てて、薄い檸檬色の水溜りがバスルームの白い床に拡がっていく。

「ふえぇ……」
「大丈夫、泣かなくていいから」
「でもっ……。あ、あぁ……」

余程我慢していたのだろう。二回目の失禁が終わってもまだ尚、彼女は尿意に抗おうと濡れたワンピースの前を押さえる。

、手が汚れるから、我慢しなくていいって」
「ご、ごめんなさい……」
「いいから気にすんな」
「ママにおこられないかな……」
「パパから話すから大丈夫」
「ぅん……」

観念したように、が体を弛緩させた。タイルに叩き付ける水滴にそれまでの勢いはなく、やがて蛇口の栓を締めるように脚の間から流れる水が止まる。

「全部出た?」

彼女は恥らいに頬を染め、こくりと頷いた。その表情が二十年近く溺愛している妻の顔にそっくりで、実の娘の粗相の始末をしているとは俄かに考えられない。可愛いな、と思い、その思考回路を慌てて打ち消す。

(そりゃ自分の娘なんだから、可愛いのは当たり前だろうよ……)

は数年ぶりの失敗が相当堪えているらしく、まだ泣き止まない。

、濡れてる服脱ごうな」
「ぅ、ん……」

といってもぐずぐずと洟を啜っているので、ワンピースと下着を脱がすのは日向の役目となった。
純白の子供用ショーツは白い肌に張り付いて、脱がすのに一苦労だ。一緒に風呂に入らなくなってからもう数年経つので、娘の裸体を見るのも久し振りである。母親譲りの肌理が細かく滑らかな体の表面に指先が触れ、わけもなく心臓の鼓動が速くなった。全く、どうかしていると思う。それもこれも、目の前でしょんぼりと項垂れている娘が可愛過ぎる所為だ。

(こうやって見ると、どこにでもいる十歳の女の子だよな)

英語もイタリア語も日本語も堪能で、ピアノも上手くて、運動神経も成績も良いというまさに完璧な美少女も、中身はまだ世話の焼ける子供なのだと思うと愛しくてしょうがない。

「自分でシャワー浴びれる?」
「あ、浴びれるもん……!」
「じゃあ着替え持ってくるから、その間に風呂に入ってろよ」
「うん」

多少落ち着きを取り戻したは、硬い表情ながらもこくりと頷いた。バスルームから出ようとした日向の背に、「パパっ……!」と思い切ったような声が飛んでくる。

「ん?」
「あ、ありがとう……」

おこらないでいてくれて。あと、汚れたとこきれいにしてくれて。
たどたどしくも、一生懸命伝えようとしているのだとわかって、思わず破顔した。

「それくらい、当たり前だろ。はパパの大事な娘なんだから」

そう、可愛い一人娘なのだ。本当はもっと世話を焼きたいくらいなのに、いつも澄ました顔で人形のように鎮座しているから。

(偶にはこんなアクシデントも悪くないよな)

に免じてのドジは許してやるか、と鼻唄交じりに子供部屋から着替えを持って出てきたら、「小次郎、そこどいてっ!」とたった今考えていたが物凄いスピードで隣を駆け抜けた。

?」
「ああ良かった、ギリギリ間に合ったぁ……」
「お前なあ……トイレのドア、開けっ放し」
「……っ!?きゃー!」

娘と違って、母親のほうは恥じらいの欠片もない。買い物帰りに飲んだアイスティーがマズかったのよ、と独りごちながら、バスルームから聞こえてくる水音に気付いて「ちゃん?」と声をかけている。

「どうしたの、今日はお風呂早いのね」
「う、うん……」
「あのさ、

さっき、自分からママには話すよと言った手前、説明しないわけにも行かず。
かくかくしかじかで、とに理由を話すと、彼女はなんだそんなこと、と安堵したように息をついた。

ちゃん、気にしなくて大丈夫だからねー!」
「ご、ごめんなさい……」
「いいのいいの。パパが居てくれて良かったね」
「うん」
「ケーキ買って来たから、お風呂から上がったら一緒に食べようね」
「ほんと?」
「うん。ちゃんの好きなミルクレープもあるから」

わぁい、とが久しぶりにはしゃいだ声を上げる。が日向にそっと目配せした。

「これでいいんでしょ」
「ああ。つか、元はと言えばが鍵置き忘れるから」
「それはごめんなさい、買い物終わったらすぐに帰るつもりだったから」

ああそれにしてもさっきのはマズかったわ。下手したらちゃんのこと笑えなくなってたわよ。心底安堵しているの様子が可笑しくて、日向は思わず笑う。

「ああっ、笑ったわね!」
「いやだって、お前が本気で安心してっから」
「当たり前でしょ、流石に娘の前で失敗したらシャレにならないわよ」
「それはちょっと見てみたい気もするけどな」
「きゃー!何言ってんの!」

さっき、わざと邪魔してみれば良かったかな。そんな悪戯心が芽生えたことに驚き、今度機会があったらちょっとだけ遊んでみようと日向は心に決めた。

最近書いた作品です。日向くんではこれが初めて。