冬の日のハプニング

冬の寒い日だった。帰りのホームルームで担任教師が、胃腸に来る風邪が流行っているから気を付けるように、と注意していた。クラスでももう四、五人の欠席者が出ていて、隣のクラスはインフルエンザでもないのに学級閉鎖を決めたらしい。

「サッカー部でも流行ってるんだよなぁ」
「そうなんだ、小次郎も気を付けなきゃ駄目だよ」
「俺は大丈夫だけど」

日向とは放課後、サッカー部の部室の前まで一緒に行って別れるのが日課になっていた。時間にしてたった十分程度だけれど、こうでもしないと二人きりの時間を捻出するのは難しいのだ。

「小次郎、ただでさえ忙しくしてるんだから」
「まあな。でも海外行ってたほうが暖かくていいかも」
「あはは、そうだね、インフルエンザとかも流行ってないだろうし」

ナショナルチームの大会は、しかし残念ながらこの時期は行われていないらしい。残念がる日向に複雑な表情で、は相槌を打った。

(何よ小次郎ったら。わたしと離れ離れになってもいいのかしら)

高等部に進学してからというもの、遠征で一週間会えないなんていうのはザラである。恋人としては寂しくて仕方がないというのに。密かに溜息をつきながら、校庭の脇にある手洗い場の前を通りかかる。

「おえぇ……」
「大丈夫?吐いちゃいなよ」
「どうした、何かあったのか」
「せんせー、○○ちゃんが急に……」

どんどん膨れ上がる人だかりと、駆け付けてくる数人の教師。

「どうしたんだろう……」
「さあな」

興味のなさげな日向の傍で、は野次馬根性全開で人混みの中を覗き込む。

(あぁ、吐いてるんだ、あの子。お気の毒に)

きっと、ホームルームで担任が話していた胃腸風邪とやらに罹患したに違いない。はピンピンしているけれど、あまりの寒さになんだかお腹の辺りが不快になってきた。

「うぅ……」
「どうしたんだよ」
「ううん、なんでもない」

よくよく意識してみると、下腹部に蟠っているのが尿意だということに気付く。

(わたしって平和だなぁ)

さっきの手洗い場にはどんどん人が増えて、救急車、という声まで聞こえてきた。余程衰弱しているのだろうか。それに比べるとの悩みなんて無きに等しい。日向と別れたら、家に帰る前に一度お手洗いに寄ろう。激しい寒さの所為で尿意は急激に高まっているけれど、持ち堪えられると信じていた。
だが―――。





恋人に尿意を気取られぬよう歩くこと更に数分。前から自分達と同じ一年生のジャージを着た三人組の女子が談笑しながら歩いてくる。三人とも背が高いので、きっとバレー部かバスケ部だろう。そのまま擦れ違うだろうと、は信じて疑わなかった。けれど三人の内、真ん中にいた女子が突然、道の真ん中で立ち止まる。

「急に立ち止まってどうしたのー?」
「う、うん、ごめん……でも、ちょっと、なんか気持ち悪……」

ただごとではなさそうな様子に、思わず日向とも足を止めた。

「どうしたんだ……」

訝しげに恋人が呟くのに、さあ、と小首を傾げた刹那、件の女子が「げほっ」と激しく咳き込み、背中が大きく波打ったかと思うと、地面にバシャバシャと茶色い離乳食のような物体が叩き付けられる。

「きゃっ!」
「え、大丈夫!?」

俄かに慌てふためく友人達と、その間にとうとうしゃがみ込んで何度も嘔吐している件の女子生徒。はグラリと頭が揺れたような感覚を覚え、思わず口元を押さえた。

(もらうかも……)

指先が寒さの所為だけでなく、冷たくなっていくのを感じる。

「大丈夫かよ、

見るな、と日向は自分のほうにの顔を抱き寄せてくれた。心臓がバクバクと、飛び出るんじゃないかと思うほど動揺している。
日向の胸に必死にしがみついていると、再び、件の女子が大きくえずくのが聞こえた。

「う、おえぇぇ……」

その衝撃、とでも言ったら良いのだろうか。腹にズドンと杭を打ち込まれたような鈍い痛みが走った後、足が小刻みに震え始める。

「えっ……」

直感的にこれは良くないと思って、咄嗟に日向の体を突き離した。

!?」
「あっ、や、だ……」

止めようとする間もなく、シュイイィィとくぐもった音を立てて、自分の脚の間から水流が迸る。まだ我慢には余裕があると思っていたのにどうして。
しかも失禁している筈なのに、麻痺しているのか、尿が出ている感触がわからない。は呆然と、足元に拡がっていく水溜りを凝視した。

(え、わたしおもらししたの……?)

幸い、真冬なので黒いタイツを穿いているから染みは目立たない。それに唯一同じ通りにいる生徒は、友人の突然の嘔吐に気を取られ、のことは見向きもしない。
呆然と立ち尽くす恋人に、日向が慌てて駆け寄る。失禁の様子は見ていた筈だ。

、大丈夫か?」
「……」
「あっちの女子が急に吐いたからびっくりしたんだろ」
「ぅ、ん……」
「取り敢えず、場所変えような。歩けるか?」

日向のいつになく優しい声音に、は何だか自分が幼い子供になったような錯覚に陥る。

「うん、歩けるよ……」
「じゃあ、濡れて気持ち悪いけどちょっと我慢しような」
「うん」

友人を囲んで座り込んでいる女子三人組の隣を早足で擦り抜けた。そこから一分も歩かずに人気のない倉庫裏へと辿り着く。しんと静まり返った放課後の校舎に、冷たい風が吹き付けての濡れた下半身は余計にひんやりとした。

「ふ、ぁ……」

は思わず立ち止まって目をぎゅっと瞑る。身震いすると同時に、シューッと微かな音を響かせながら膀胱内に残っていた尿が溢れた。幾筋かの水流となって地面を濡らした後、ぽたぽたと雫が落ちる。日向はがショックで放心状態になっているのだと好意的に解釈してくれたようで、叱ることはしない。

、もうちょっとで寮に着くから、あと少しだけ頑張ろうな」
「ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていいって。つか、お前まで気分悪くなったりしてないか?」
「わたしは、だいじょうぶだよ」
「ならいいけど」

日向は幼児の手を握るように、ぎゅっとの小さな手を引く。いつになく甘えた声を出す恋人に向かって、あやすように声をかけている間に寮に着いた。





を寮の自室に連れて行き、部屋のドアを閉めたら思わず安堵の溜息が零れた。は今頃になって羞恥に襲われているようで、ドアの前に立ち尽したままグズグズと泣いている。

、着替えなきゃ」
「ん……」
「ほら、こっち来いって」

いつもはクラス一の優等生で通っているのに、今や見る影もない。元々背が低くて華奢なので、自分の妹と同じような小学校低学年の子供に見えた。

「スカートはあんまり濡れてないから、そのままにしとくけど……」
「っく……ふえぇぇ……」
「泣くなって。あれはしょうがないと思うぜ。俺でも驚いた」
「ぅ、ぅん……」
「だからもびっくりしたんだよな」

は従順にこくりと頷く。いよいよ普段の彼女からは考えられないしおらしさである。

「タイツと、あと下着も脱ごうな」
「うん……」

日向の肩にちょこんと手をかけて、されるがままに濡れたタイツとショーツから足を抜いた。つるりとした白い脚が露になり、素肌を指が滑る。何度も触れてきた筈なのに少々気まずい。

「軽く洗って乾燥機に突っ込めば、すぐに乾くから」
「うん」

もたくさとしているでは埒が明かないので、スポーツタオルで濡れたところを手早く拭いてやった。

「寮の中は暖房利いてるから、暫くそのままでも大丈夫だろ」
「うん、寒くないよ。ごめんね、小次郎」
「いいよ、別に」

何か可愛かったし、というのは黙っておく。
に洗濯乾燥機の使い方を教えていると、「参ったよなー」と聞き覚える声が背中で聞こえた。

「あれ、キャプテン、こんなところでどうしたんですか」

振り返ると、若島津と反町が難しい顔をして立っている。

「いや、ちょっとが……」

漏らしたともいえず、「急に具合悪くなって」と、もごもごと誤魔化した。は固い表情で、しかもまだどことなく顔面蒼白なので、説得力はあるだろう。

「ああ、さんももしかして風邪?大丈夫?」
「う、うん……」
「それより何だよ、練習中に何かあったのか」
「そうそう、先輩達の間で胃腸風邪が流行ってるらしくて、今日の練習は中止になりました」

何でも二年三年はトイレとグラウンドの往復で練習どころではなかったらしい。

「マジかよ……」
「なんかタチの悪いウイルスが猛威を振るってるみたいですね」

反町はに憐れむような視線を向けて言った。彼女が手にしているのがタイツだと気付いて、更に労しげな表情になる。

「お腹壊したら辛いよね」
「えっ……」

いいんだ、言わなくてもわかるから、とでも言いたげな若島津と反町。二人は心配そうに顔を見合わせて嘆息した。

「日向キャプテンがいてくれて良かったね」
「ちゃんと水分摂って安静にしておかなきゃだめだよ」

口々ににそう声をかけていく。

「あっ、これは違うの……っ!」

は慌てて誤解を解こうとするけれど、二人は「お大事にね」と心配そうな眼差しを向けて去っていった。

「あー、あいつら絶対勘違いしてるな」
「わたし、大きいほうしちゃったわけじゃないのに……」

絶望的な表情では項垂れる。いいよ後で伝えておくから、と日向は言い掛けて、そうなるとが漏らしたことを告げなければならなくなることに気付き、仕方ないな、と苦笑するしかなかった。

某呪ウイルスは凄いらしいですね。