憧れの人

は若島津にとって、四年来の片想い相手である。
彼女は東京都下では名を知らぬ者がいない程の美少女で、東京じゅうの男子学生がこぞって彼女に憧れていると言っても過言ではない。
若島津も東邦学園中等部の入学式で一目惚れした。しかし彼女は僅か十日足らずで他人のものとなったのだ。
掻っ攫って行った(としか若島津には思えない)相手が日向でなければ、真正面からを奪い合っただろう。日向がを射止めたのは不幸中の幸いとでも言うべきか。お陰で親友の若島津にまでと親しくする権利が舞い込んできたのは嬉しいけれど、指を伸ばせば届く距離にいるのに、自分からは触れられないというのも辛い。
どうにかして彼女ともっと深く、強固な絆で結ばれないものか。恋人同士でなくてもいい。例えば秘密を共有する共犯者のような、そんな歪な関係でもいいから、ただの友情を超える為の何か。
若島津の願いが通じたわけではあるまいが、悶々としていた矢先に、その日は訪れた。





なんだか、寒い。
は暖房の利いた室内にいるにも関わらず、寒気を感じて自分の肩を両手で抱いた。それに、少しだけお腹も緩んでいるような気がする。

(風邪でも引いたんだろうなぁ……)

丈夫なだけが取り柄と思っていたが、大流行している風邪には敵わなかったらしい。喉の痛みもあるし、関節が軋むので、もう少しすれば高熱が出るのかもしれない。
はこの学園の中では、女王様的な存在である。自分でもそれは理解している。その矜持が、決して弱っている姿を周りには見せたくないというプライドに繋がり、彼女は懸命に体調不良を推して授業を受け続けた。
しかし、昼食を無理して食べたのはマズかったようだ。

(うへぇ、気持ち悪い……)

五限目ともなると、胃の辺りがムカムカして仕方がなくなってきた。けれどそれ以上に彼女が懸念しているのは、ゴロゴロと不吉な音を立てている腹部である。下したのは間違いない。せめてあと二時間弱、家まで持ち堪えてくれると良いのだけど。

さん、なんか顔色悪いけど、大丈夫?」
「う、うん……」

今日は日向が全国高校サッカー選手権の関係で不在にしているので、若島津と反町が何くれとなく気を遣ってくれていた。けれど忠実なの臣下、騎士とも言うべき二人にも、流石に腹具合が悪いことまでは告げられない。

「それならいいけど……。タチの悪い風邪が流行ってるみたいだから、具合悪かったら無理しないで言いなよ」
「ありがとう」

は弱々しく微笑んだ。
チャイムが鳴り、六限目の授業が始まる。若島津も反町も心配そうにを振り返りながら、自席へと戻っていく。
これが今日最後の授業だから、と彼女は気持ちを奮い立たせた。が、十五分も過ぎた辺りから突然、熱が上ってきたのを感じる。頭が割れるように痛く顔が熱いのに、体は氷の中に浸されているかのように寒い。

(気持ち悪い、お腹も痛い……)

吐き気はまだ何とか我慢できるけれど、絞るような腹の痛みに顔を顰めずにはいられない。荒く呼吸する度に、湯気が立つのではないかと思うほど熱い吐息が零れた。しかしクラスを見回してみると、体調の悪そうな生徒が何人もいるので、誰もの異変には気付かない。

(お手洗い、我慢、できるよね……)

授業が終わるまであと十分弱。けれどどうしても無理だと思ったら手を挙げてお手洗いに行かせてもらおう、とは心に決めて再びノートに目を落とす。字が霞む。そして文字を眺めていると更に気分が悪くなってきた。口元を押さえて俯いていたところに予鈴が、福音のように聞こえる。
なんとか大丈夫だった。そう思った矢先、腸を捻られるような激痛が下腹に走る。

「痛……。あっ」

グチュ、とショーツの中で嫌な音がした。

(やだ、もしかして今の……)

明らかにおしっこをちびったような感覚ではない。水様便が漏れたのだ。

(どうしよう……)

トイレに行こうにも、帰りのホームルームの為に担任教師が教室に入ってきたところだった。ただ有難いのは彼の話はいつも短いことで、今日も淡々と伝達事項だけ告げ、すぐに学級委員が号令をかける。

「起立、礼」
「さようならー」

はぼんやりと霞む意識の中、なんとか鞄の中に教科書を詰め込んだ。

さん」
「あ、若島津くん、反町くん……」
「どうしたの、顔真っ赤だよ」
「なんか、風邪引いたみたいで」

言い終るや否や、再び強い腹痛に襲われる。

「っ……」
「大丈夫?お腹痛いの?」
「う、うん……」

しかもまた、プスプスと薄布の中で何か粟立つ音が耳に届いた。

「トイレ、行ける?」
「うん」
「一度出したら少しは治まると思うから、その間に帰るといいよ」
さん、荷物これだけ?おれ、持っていくよ」
「反町くん……」
「また教室まで取りに戻るのキツいだろ」

トイレまで一緒に来てもらうのは恥ずかしいけれど、体調は限界に近い。は相手が若島津と反町なので、有難くその厚意に甘えることにした。

「ありがとう……」
「気にしないで。日向さんがいればいいんだろうけど」
「嫌だ、恥ずかしいもん。いなくて良かった」

いくら四年近い付き合いの恋人でも、体調不良とはいえ、大きなほうを僅かでも漏らしてしまったなんて決して知られたくない。

(若島津くんも反町くんも気付いてないよね……)

少しショーツを汚しただけだ、とは自分に言い聞かせ、若島津に肩を抱かれるようにして女子トイレへと向かった。





若島津がと並べば親子ほどの身長差がある。頭一つ以上小さな少女の肩が苦しそうに上下するのを眺め、彼は一度、トイレが済んだら保健室に連れて行ったほうが良いのではないかと考えた。このままの状態で、家まで歩いて帰れるとは思えないのだ。

「そうだろうな、それがいい」

がトイレに入っている間、傍らに立つ反町に話すと賛同してくれた。ハンカチで手を拭きながらよろよろと出てきた彼女は、激しい下痢で体力を消耗したのか、先程よりもげっそりとやつれて見える。

さん、そのままじゃ家まで一人で帰れないよ。一度保健室に行こう」
「うん……」

彼女も自分の体がどんな状態にあるのかはわかっているのだろう。

「あ、でもおれはすぐサッカー部のほうに行かなきゃ。今日キャプテンいないから、部室の鍵開けないと」
「そっか、日向さんの代わりに反町が頼まれてるんだったよな」

若島津は親友が持ってやっていたの通学鞄を受け取り、二、三言部の連絡事項を交換する。

「ごめんね、若島津くんも反町くんも忙しいのに」
「いいって。さんは気にしないで」

駆けて行く反町の後ろ姿を見ながら、が申し訳なさそうに睫毛を伏せた。羽根のように長いたっぷりとした睫毛が、落ち窪んだ眼窩に更に濃い翳を落とす。

「保健室に行って、家に連絡してもらったほうがいいかも」
「うん、今ならお母さんがお家にいるから」
「それなら良かった」

足取りの重たいに歩調を合わせ、漸く辿り着いた保健室は、放課後だと言うのに人で溢れていた。

「うわ……」

酷い悪臭に、思わず顔を背ける。吐いている生徒、新聞紙や白盆に下痢便を排泄している生徒、辛さと羞恥で泣き叫ぶ女子。阿鼻叫喚図とはまさにこのことだ。

「あなたたちはどうしたの?」

入口に突っ立っていると、三十代半ばの女性養護教諭がさばさばと声をかけてくる。息も絶え絶えにしているに代わり、若島津が手早く状況を説明してやった。養護教諭はふんふんと頷いて、のほうを向き直る。

「そんな中でも、最後まで授業受けたの?偉いわねぇ」
「いえ、そんな……」
「あなた、学校側に期待されてるから大変よね」

がこの学園の絶対的女王である理由は、常に学年トップの成績とこの美貌、それに加えて学園のスターである日向の彼女という立場にあった。だからも、こんなギリギリまで授業に出続けたのだろう。意地とプライドで。他の女子生徒ならとっくに音をあげている。

「っ……」
「どうしたの?」
「おなか、いたい……」

は体をくの字に曲げて、苦しげな喘ぎ声を洩らした。

「若島津くん、ちょっとお願いしてもいい?」
「何をですか?」

養護教諭は微かに言いよどむ素振りを見せた後、彼に耳打ちする。

「そこのパーティションで区切られた向こうは誰もいないから、新聞紙敷いてそこで後始末してあげて。多分、この調子だとトイレまで我慢できないでしょ」
「それって……」
「私、見ての通りこれだけ患者がいて手が回らないのよ」

若島津が養護教諭の向こうを見ると、確かに男女問わず、出来る限り友人が付き添って介抱してやっているようだ。

「ちょ、ちょっとお手洗いに……」

はそれでも懸命に体を立て直し、踵を返そうとする。しかし、確かに教諭の言う通り、トイレまで無事に辿り着けそうには見えない。彼女でなければとっくの昔に決壊しているのではないかとさえ思った。

さん、ちょっと恥ずかしいけどあっちでしようか」
「え……」
「ほら、トイレまで行くのもうキツいだろ?大丈夫、俺しか見てないから」
「でも……」

思春期の女子が、いくら非常事態だからとはいえ、親友にそんな恥ずかしい姿を見られるのは何としても避けたいことだろう。だが間に合わなくて漏らしてしまうと、衣服まで駄目になってしまう。

「洋服まで汚れたら困るから、ね?」

羞恥に顔を背けるは愛らしくて、若島津は速くなった動悸を悟られぬよう口を開く。

「う、うん。でも小次郎には言っちゃダメだよ……?」
「うん、絶対に言わないから」
「やくそくだよ?」
「勿論」

は観念したのか、若島津に手を引かれるままパーティションをくぐった。ベッドの上には古新聞が積まれていて、学校側も大変だな、と、若島津は妙なところに感心してしまう。その時、「ああっ……」と絶望的な声が聞こえて、のほうを振り返った。

さん、どうしたの?」
「……っく、えぐっ……」

彼女は泣いてばかりだが、便臭が漂っているわけでもない。しかし足下には、微かに茶色く濁った水溜りが広がっている。ポタポタと脚の間から落ちる雫。

「もしかして、オシッコ出ちゃったかな?」
「ふえぇぇぇ……ごめ、んなさい……」

我慢しようとしたけど、できなかったの。は小さな子供のようにしゃくり上げながら弁解する。

「大丈夫だよ、謝ることないって。そっか、体辛いんだよな」

額に手を当ててみると焼けるのではないかと思うほど熱く、四十度近い熱があるのではなかろうか。おそらく立っているだけでも相当辛い筈だ。

「ごめんなさぃ……」
「いいから、気にしないで」
「ぇ……っく……」

さめざめと泣くのスカートの中に、少し迷ったが手を差し入れた。

さん、お腹痛くない?大丈夫?」
「う、うん、今は何とか……」

は手の甲までかかるセーターの袖口で涙を擦りながら、されるがままに身を任せている。バランスを崩さないように肩につかまって、と言えば、素直に従う。脱がした下着にはごく少量の液状便が付着していて、それが苦しんだ証のようで痛ましい気持ちになった。
用意周到に、新聞紙の横にバスタオルと普通のスポーツタオルも積まれている。若島津はそれを手にして、の腿や尻、恥丘を拭いた。ごく稀に大人になっても恥毛が生えない人間がいると聞くが、がまさにその人種らしい。小さな子供に接しているようで、それはなんだかいけないことをしているようでもあって、仄暗い興奮を覚える。

「でもこのままじゃ帰れないね。ちょっと待ってて、先生に着替えがないか聞いてくる」
「わかった」

熱の所為で、返事をする声が舌足らずになっていて、不謹慎ながらも可愛い。念の為、足元に新聞紙を敷いてその上に立たせておくけれど、若島津が養護教諭から紙パンツを受け取って戻ってきてもそのままの状態だった。

「これしかないんだって」
「そ、そうなんだ……」

紙パンツは即ち履くタイプの紙オムツである。は怯えたようにおどおどと瞳を伏せた。一方、若島津からしてみれば、まさか長年憧れてきた人のこんな姿を目にすることになるとは思ってもみなかったので、心臓が早鐘を打っている。

(紙オムツ姿は、流石に日向さんも見たことないだろうな)

はこれ以上抵抗する余力がないのか、思いの外あっさりとそれに足を通した。

「なんか、ヘンな感じ……」
「でも、これなら汚しても安心だよ」
「汚したりなんてしないもんっ」
「うんうん、わかってるよ」

ムキになって言い返すの姿が愛しい。手を洗って帰ってきたら、養護教諭が「親御さんに連絡しておいたから」と伝えた。

「これ、汚れた下着とタイツ、帰って洗濯しなよ」
「うん。あの、若島津くん……」
「なに?」
「ありがとね、色々と」
「いいって。良くなるまでゆっくり休んで」
「小次郎には言っちゃダメだよ」
「わかってるよ」

誰が言うものか、と思う。日向に伝えてなんかやるものか。
何か、特別なものが欲しいと思っていた。そしてその願いは、秘密という形になってもたらされたのだった。

ヒロインは女王様扱い、或いはお姫様扱いされている設定です。