『憧れの人―番外編―』

冬の全国サッカー選手権に関わる用事を片付けてクラブハウスに戻ったら、偶然通りかかった若島津と反町が日向を見つけて、あっと声を上げた。

「日向キャプテン、お疲れ様です」
「おう」
「キャプテン、さん今日、学校で具合悪くなっちゃって。ほら、例の胃腸風邪。あれに罹ったみたいなんですよね」
が?」

日向は幼馴染の言葉に、練習用の道具を出していた手が止まる。
……昨日までは、元気そうに笑っていたのに。そんな日向の心中を見透かしたかのように、若島津が顔を顰める。

「めちゃくちゃ流行ってますからね。保健室なんてまさに阿鼻叫喚図」

なんでも、今の保健室は野戦病院のような有様で、盆を抱えて嘔吐する生徒、新聞紙を敷いて脱糞する生徒など、狂気の沙汰としか思えないのだそうだ。

「昨日、さんを保健室まで連れて行った時に見ちゃって」
「なら暫く、カレーがトラウマになってるんじゃないのか」

反町の揶揄うような声と若島津の応戦する声が、日向の耳を通り抜けていく。
もそんな辛い目に遭っているというのだろうか。あんなに華奢で小さい少女が、その苦痛に耐えられるのか。
まだ日向が小学生だった頃、同じようなウイルス性の胃腸炎が猛威を振るい、妹と弟が一緒に罹患したことがある。あの時、家の中は饐えた吐瀉物の匂いと下痢便が放つ強烈な悪臭で、酷い様相を呈していた。サッカーで鍛えていた自分は幸い、軽く腹を下しただけで済んだけれど、妹も弟ももう幼稚園に通っている年齢だったのに、何度も粗相して着替えるのを手伝ってやったっけ。

「俺、今日の練習が終わったらの家に見舞いに行ってみる」
「うん、それがいい。きっと、さんも喜ぶと思いますよ」

反町がすかさず賛成している隣で、若島津が僅かに複雑そうな表情を見せたけれど、日向にとってはそんな些細なことよりも、の容態のほうが気に懸った。
おかげで練習にも身が入らず、監督の「日向も今日は疲れただろ。早めに切り上げるとしようか」という提案を有難く受けた。





の家に着いたのは、午後六時前。真冬のこの時間、既に空は深い藍色に染まり、白い吐息がぼんやりと宙に浮かぶ。
閑静な住宅街に建つ、手入れの行き届いた白い家。は一人っ子で、両親と三人で暮らしていた。ガレージにはセダン車と綺麗な色の軽自動車が一台ずつ並んでいる。セダンは父親の、軽自動車は母親のものなのだろう。
もう何度も遊びに来ているので、躊躇することもなくインターフォンを押した。軽やかなチャイムがドアの向こうで響く。

「はい」
「あ、日向です……」

落ち着いた、というよりも沈んだような声音は母親のものだろう。名乗ると「あら、小次郎くん」と、少し明るくなった声が返ってくる。同時にドアが開く。

「すみません、急に。が具合悪くなったって聞いて……」
「今日は選手権の用事で忙しくしてたんでしょう。それなのにわざわざのお見舞いに来てくれたの?ありがとう」

の母親の年齢を訊いたことはないけれど、と並ぶとそっくりで、姉妹にしか見えない。寧ろ母親のほうが、年齢を重ねている分だけ落ち着きが増し、日向はいずれ義母となる人と対峙しているというのに、そわそわと落ち着かない心地になる。

(相変わらず美人の母娘だな)

だが母親のほうは、薄暗い外灯の下でもわかるほど、憔悴していた。疲れた表情さえも儚げで美しい。日向はその俯きがちな表情に見惚れながらも、いつもは玄関を開けた瞬間に漂ってくる芳香剤の香りの中に、馴染みる匂いを嗅いだ。

「それで、は……」
「ああ、あの子は……」

母親は自分を招き入れて良いものか逡巡しているらしい。家の中に視線を転じて、隠すことなく溜息をついている。

「小次郎くん、ちょっと汚いけど、上がっていく?」
「お義母さん達さえ良ければ……」

母親は構わない、という風に頷いた。それから廊下の向こうに声を張った。

ちゃん、小次郎くんが来てくれたわよ」
「嫌っ、今上がってきちゃ駄目だってばぁ」

の涙声が聞こえ、日向は驚く。一体何があったというのか。

ちゃんが最初からママの言うこと聞かないから、そんなことになるんでしょ」
「だって、だってぇ……」

日向はの母親の後について、黙って玄関に足を踏み入れる。より一層、鼻をつく臭い。それが人糞の臭いだと気付いたけれど、繰り返す下痢でトイレに臭いが籠ってしまっているのだろう、と呑気に考えていた。

「ほら、もう泣かないの。ちゃん、これでわかったでしょ。あなたそんなにお手洗いとお部屋を往復してたら、いつか失敗するわよ」
「まだ大丈夫だもん、間に合ってるもん」
「嘘おっしゃい。少しお漏らししたでしょ」
「ほんの少し出ちゃっただけだよ」
「下着を洗濯するのは大変なのよ。せめてお水みたいな下痢がもう少し良くなるまで、おむつ穿いて頂戴」
「それだけはヤだ、だってわたし高校生だよ!?」
「我侭言わないで。今日はパパが残業で遅くなるから、ママ一人じゃちゃんの面倒をずっと看てあげられないのよ」

哀願するような母親の口調。それでもは、廊下に座り込んだまま必死に首を横に振っている。
凡その予想はついたけれど、日向は傍らの母親に確認するように問うた。

「何かあったんですか」
「それがね……」

日向に説明しようとした母親に、が一際高い声を上げて反発する。羞恥の所為か、頬が真っ赤に染まっていた。

「小次郎にだけは言っちゃダメ!こんな恥ずかしいこと知られたら、嫌われちゃう……」
「そんなことねぇよ。つか、あんまりお義母さんを困らせるなよな」
「でも、ママったらわたしに……」

不意に言葉が途切れ、が急に体を丸める。白い頬を伝う脂汗と涙。腹が痛いのだろう。小さな手で下腹を押さえ、ぎゅっと瞳を閉じて激痛に耐えている。

「ううぅ……」
!?」
ちゃん!?」
「くぅ、あっ、は、ぁ……」
ちゃん、お手洗いまで我慢して……」
「立てるか、
「ダメ、むり、まにあわな、い……い、嫌やあああああっ……」

絶叫と共に、ビリビリビリと紙を破くような音が静まり返った廊下に響いた。続いて、シュウウウゥというくぐもった音。

「あっ……」

座り込んでいるの股間から水が流れ出して、彼女が失禁したのだとわかった。でも、その前に、もしかすると―――。

、大丈夫か?」
ちゃん……」
「うわああぁん、え、っく、ひっく……ふええん……うぇーん……」

泣きじゃくるのパジャマからは、ムワッとする大便の臭気が立ち上る。思わず顔を背けたくなるのを堪えながら、日向はその背を擦りながら優しく声をかけた。

「小次郎くん、ごめんなさい。こんなお恥ずかしいところをお見せしてしまって……」

あなたにまで迷惑かけて、ごめんなさい。の母親はてきぱきと掃除の準備をしながら、申し訳なさそうに頭を垂れる。気にしないで下さい、と殊更明るく告げて、恋人に向き合った。

「なぁ、お義母さんも辛いんだぞ。俺は今更何を聞いたって驚かねぇから、どうしたのかちゃんと言おうな」
「ほんとうに、ほんとうに怒らない……?」
「怒らないよ。具合がかなり悪いんだろ。今だって、トイレ、間に合わなかったくらいだし」
「うん、パンツにウンチ出ちゃったの……。今日、お家に帰ってからね、お漏らししちゃった……。一回目はほんの少しで、ちゃんとお手洗いに間に合ったんだよ。でも、今はぜんぶ、出ちゃった……」

言うや否や、はまた甲高い声で泣き出す。だって我慢できなかったんだもん。お水みたいなんだよ。一緒にオシッコも出ちゃうし、さいあくだよぉ。

「そっか、それでお義母さんも参ってたわけだ」
「ママはオムツしなさいって言うの。でももう、わたし高校二年生だもん、恥ずかしいよ」
「でも、俺もそっちのほうがいいと思うぜ。このままだと、着替えが何枚あっても足りねぇだろ」
「嫌だよ、小次郎は自分の彼女がオムツしてなきゃダメな子でもいいの?」
「病気なんだからしょうがねぇだろうが。治ったらすぐに外せばいいんだし、少しの辛抱だよ」

取り敢えず、いずれにせよ早くこの汚れたパジャマと下着を脱がせなければ。可愛らしいクマの模様が散った生成りのネルのパジャマは、ズボンだけが前も後ろも茶色く濡れている。

「小次郎くん、ごめんなさいね、ここは私が片付けておくから。あなたに移ったら大変」
「え、でも……」
「感染力が凄く強いんですって。消毒しなきゃならないから、リビングかのお部屋でゆっくりして行って」

母親は娘に似た、聖母のような微笑を日向に向けた。にも、決して咎める風ではなく、「ちゃん、もうこれで諦めなさい。小次郎くんも言ってくれたけど、ほんの数日の辛抱だから」と暗にオムツの着用を勧めていた。

「うー……」
、お義母さんの言うこと聞こうな」
「ぅ、ん……」

は母親が用意してくれた新しいパジャマと、幼児向けのデザインの可愛らしい紙おむつを手に風呂場へと消える。シャワーを使う音に混じって啜り泣きが聞こえてきた。

(今回ばかりはしょうがねぇよなぁ……)

日向はリビングのソファに座って天井を仰ぐ。やがて、バスルームから出てきたは清潔なパジャマを身に纏い、石鹸の香りを漂わせていた。

「綺麗にできた?」
「うん……」

頻りに尻の辺りを気にしているのは、紙おむつのかさつく感触に慣れないからだろう。

「なんか、ヘンな感じだよぉ……」
「仕方ねぇよ、は病人なんだから」
「小次郎、本当に幻滅してない?」
「するわけねぇだろ。が元気になったら、また色んなことしようぜ」
「色んなことって……やだ、何考えてんのよ、小次郎の変態!」
「俺は何も言ってないだろ。のほうこそ、やらしいこと考えやがって」

じゃれ合っている内に、の表情にいつもの明るさが戻ってくる。ほっとしたのも束の間、「あ……」と悩ましげな声を出して、の動きがピタリと止まった。

?」
「……」

返事の代わりにパジャマの中で響く、くぐもった水音。目に見えての耳朶が朱に染まっていく。

「……ちぃ、しちゃった……」

紙おむつによる幼児退行現象なのだろうか。舌足らずで幼児のような喋り方の恋人に釣られて、日向も自身の妹に接しているような錯覚を覚える。

「我慢してたのか?」
「うん」
「間に合わなくなる前に言わなきゃ駄目だろ」
「ご、ごめんなさい……」
「出ちゃったモンはしょうがないから、次からはちゃんとトイレでしような」
「ふぇ……」
「今日はいいんだ、は病気なんだから。歩くのもキツいんだもんな」
「うー……」
「パジャマのズボンは濡れてないから大丈夫。おむつだけ換えれば済むさ」
「うん」

廊下の掃除を終えたらしいの母親が、日向と娘の問答に気付いて、慌てて新しいおむつを持ってきた。

「小次郎くん、ごめんなさい、ったらまた……」
「あ、でも小便のほうだから。体がキツくて我慢できなかったみたいで」
「まあ……」

母親は純粋に娘の身を案じているようだ。

「パパが残業で少し帰りが遅くなるから、小次郎くんにまで迷惑かけてごめんなさいね」
「俺は全然構わないんですけど……。、自分で換えられるか?」
「ううん、できない」

は小さな頭を横に振る。甘えているだけなのだとすぐにわかったが、母親は呆れたように溜息をつくと、「小次郎くんだって疲れてるんだから困らせちゃ駄目よ」と前置きしたうえで、

「小次郎くん、のことちょっとお願いしてもいいかしら?」

と上目遣いで頼んだ。
今、パパから電話がかかってきて、もうすぐ帰るっていうからお夕飯の支度しなきゃならないのよ。
そう続く言葉は遠く聞こえ、大きな瞳で見上げられたら、にお願いされているようで鼓動が速くなる。

「いいですよ、どうせ明日も選手権の用事で学校には行かないし」
「ほんと、この大事な時期にの面倒なんてお願いしてる場合じゃないんだけど」
「でも、俺もが早く元気になってくれねぇと、サッカーに集中できないんで」

パジャマのズボンを下ろして、重たくなった紙おむつを脱がせた。母親が持ってきてくれたタオルで、の産毛すら生えていない恥丘を拭いてゆく。本当に妹の世話を焼いているようで、性的な欲求は微塵も湧き上ってこなかった。

「ほら、これで綺麗になった」
「えへへ、ありがとー」

ピンクのうさぎ柄のパジャマを着せ終えると、は無邪気に笑う。その笑顔はどんな姿でいても、日向の瞳にはやっぱり、世界で一番眩しく映るのだった。





その日は二十時過ぎに、の父親が帰ってくるのと入れ替わるようにして、彼女の家を後にした。無論、義父となるであろうその人からも、日向のほうが恐縮してしまうほど礼を言われた。

「小次郎くん、が大変ご迷惑をおかけしたみたいで、すまなかったね」
「いえ、大丈夫です」
「今度、お礼に食事でも一緒にしよう」
「そうだわ、それがいいわね」

じゃあ、お言葉に甘えて。日向がそう答えているのを、が父親の腰の辺りに掴まって、呆けたような顔で見上げていた。熱があるらしく、目がとろんとしている。

、早く元気になれよ」
「うん」

従順な彼女なんて、滅多に観られる代物ではない。しかも幼児退行したは普通に可愛いと思う。もし将来、自分達に娘が生まれたら、きっとあんな幼女に育つのだろう。そんな未来は素直に楽しみで、日向は寒い冬の夜道を軽い足取りで寮へと帰っていった。

赤ちゃん言葉って難しいですね……!