見てはいけなかったもの

それはが高校二年生の時の出来事だ。
放課後、教室で残って教師に頼まれた雑用を片付けていたら、あっという間に陽が暮れようとしていた。
作業に集中していたようで、帰りのホームルームから向こう、気付けば一度もお手洗いにさえ立っていない。一度集中力が途切れると、トイレをだいぶ我慢していたことに気付き、彼女は慌てて席を立った。

(うぅー、早くお手洗いに行かなきゃ)

下腹部は重く、溜まりに溜まった水分が出口のすぐそこまで来ているのがわかる。は教室を出て、誰もいない筈の女子トイレに駆け足で向かった。すぐに個室に入り、この尿意を解放できる……筈だった。

「自慰行為っていうのを見せなさいよ」
「そうよ、アンタいつも野球部の××先輩を思い浮かべてオナニーしてるんでしょ」

きゃははははっ、と耳障りな甲高い笑い声。は突然狂ったような嬌声と性的な単語を耳にし、思わず立ち止まる。

(え、誰かいるの……?)

自分以外にまだ、通常の教室が連なる校舎棟に残っている生徒がいたなんて。私立校というだけあって、ホテルの化粧室にも劣らない内装のトイレに足を踏み入れる。声は、奥のほうから聞こえていた。

「やめ、やめて……」
「いいじゃん、見せなさいよ」
「そうよ、オナニーするとこ見せないんだったら、代わりにおもらしするところでもいいわよ」
「ただしウンコのほうね」
「ぎゃはは、何それ、鬼畜〜!」

けたたましい笑い声が響き、は足を竦ませる。

(何、今の話……)

目の前で、同じ制服を着た女子生徒が三人、誰かを囲んでいるのがわかる。三人組の間から、ちらちらと覗く肌色。目に飛び込んできた膨らみが乳房だと気付き、はひっと口元を覆った。

(イジメ、だよね、これ……)

隣のクラスで酷いイジメが行われているという噂は聞いたことがある。だが、東邦学園は私立校らしく、そこそこの家柄の上品な子供しかいない印象だったし、中等部から通算五年近く通っているけれど残酷なイジメの現場は一度も見たことがなかった。
高等部の二年生に上がって公立から転校してきた子がイジメに遭ってるんだって―――。
クラスの女子がひそひそと交わしていたお喋り。だがそんな話は、飽くまで噂でしかないのだろうと思っていた矢先の出来事だった。

「ねえ今、足音しなかった?」
「うん、なんか聞こえたよね」

三人組の内の二人が同時にくるりと後ろを振り向く。

「あ……」
、さん……」

二人は見るからに「しまった」という顔をしていた。けれども虚勢を張っているのか、胸は逸らせたままで、「何の用?」とふてぶてしくに問う。

「わたしはただ、お手洗いに……」

しどろもどろに答えるは、自分でも気付かない内に後退さっていた。怯えたような瞳でこちらを見遣る裸に剥かれた少女。喉の奥を引き攣らせ、空気を切り裂くような音が聞こえる。悲鳴を洩らしたのは彼女か、それとも自身か。
気付けば踵を返して駆け出していた。

(今のは何?やだ、怖いよ……)

目的地などなく駆けていたら、「さん?」と聞き覚えのある声が頭上に降ってきて立ち止まる。

「若島津、くん……」
、こんな時間まで何やってんだ」
「あ……」

若島津の傍には、誰よりも好きな恋人の姿。

「小次郎……っ」

はへなへなとその場に座り込む。腰が抜けたのだ。

(ああ……)

声にならない溜息をついたのも束の間、安心したら体の力がゆるゆると抜けた。従って、必死に出口の直前で押し止めていた水も、ストッパーを失くして溢れ出す。

「え……」

廊下の冷たい感触に混じり、じんわりと脚の間に拡がる温もり。シュイィィィーというくぐもった水音が、三人しかいない静かな廊下に響く。スカートを浸す水溜りに気付いて、若島津も日向も息を呑んだのがわかった。

、ひょっとしてお前……」
「あっ、違ぅ、これは……っ」

パクパクと口を動かすけれど、脚の間から迸る水流は一向に弱まる気配がない。むわりと立ち上る湯気と、コーヒーに似た濃い尿独特の匂い。立ち上がれない、と思った。

(わたし、お漏らししちゃった……)

絶望的な気持ちで、両手で顔を覆う。
ちがうの、お手洗いには行ったけど、だめだったの。
恋人と親友が見ている前で、高校二年生になってお漏らしだなんて。恥ずかしいやら情けないやらで、は幼児に戻ったように声を上げて泣くことしかできない。

「ちゃんとお手洗いには行ったんだもん……」
「じゃあなんで……」
「人がいっぱいいて、それで」
「入れなかったのか?こんな放課後の遅い時間に……」

日向は困惑した口調での傍らにしゃがみ込む。

「別に怒ったりしねぇから、ちゃんと説明しろって」
「あのね、」
「うん」
「女の子がね、いじめられててね、それで……」

今思い出しても体が震えた。は恐怖で更にしゃくり上げる。見て見ぬフリをして逃げ出した自分。そのうえ、いい歳をしてお漏らししてしまったことへの自己嫌悪が理性を奪った。

「近づけなかったんだもん」

聞き慣れない卑猥な単語、裸体を晒された少女の怯えきった表情。今思い出しても、体が震える。怖かった。けれど逃げ出した自分の卑怯さにも嫌気が差す。助けてあげるべきだったのではないか。気持ちがぐちゃぐちゃになって、言葉が見つからず、ただただ声を上げて泣いた。日向と若島津は困ったように顔を見合わせる。

「だから走ってきてたのか」
「うん」
「そっか、の言いたいことはわかった」
「だから、お手洗い我慢してたことわすれてたの……」

二人の姿を認めたら、安堵する余り全身の力が抜けてしまったのだ。走っている間は、尿意のことなんてすっかり頭から消え去っていた。それくらいショックだったことを、どうか彼らにだけはわかって欲しい。

「俺達に会って安心したんだね」

大丈夫だよさん、泣かなくていいから。
若島津の声が優しくて、は泣き声をいっそう高くした。

「もう泣くなって。つか、そんなギリギリまで我慢してっと体に毒だぞ」

ああほら、すげー量。スカートがびしょ濡れじゃねぇか。
日向はを宥めてその場に立たせると、首にかけていたスポーツタオルで雫の滴っている脚を拭いてやる。彼女は一向に泣き止まない。

、ほら、ちょっと足開けって」
「や、ぁ……」
「嫌なのか?」
「足開いたら、出ちゃう……」
「え、何が」
「だってまた、おしっこしたくなって……」
「マジかよ」

日向は思わず天を仰いだ。女子トイレは各階に一つしかないので、この階だとがさっきイジメの現場を目撃したというトイレしかない。

「まだいますかね、そいつら……」

若島津がそっと日向に耳打ちする。もう帰ったと信じたいが、万が一出くわしてしまったら厄介だ。

、一つ下まで我慢できる?」
「ムリ……。もう、がまんできな……あ、あぁぁぁ」

が悲鳴にも似た嗚咽を洩らす。何本もの太い水の柱が、激しい音を立てて廊下に叩き付けられた。冷えかけていた下着の中が再度生温い液体で溢れ、ぬるま湯に浸かっているような感覚を覚える。瞼には涙がとめどなく浮かび、足元はバケツをひっくり返したように水溜りが拡がっていて、薄暗い室内では白い湯気が立っているのがはっきりとわかった。余計に恥ずかしくて幼子のように泣くことしかできない。

「ふぇ、え……っぐ、出ちゃった……。止まんなかった……」
「うん、もう全部出たか?」
「うん……」
「全く、世話が焼けるぜ」
「日向さん、そんなこと言ったらさんが……」

彼女だってショックだったんですよ。
俯いて泣きじゃくるの髪を、親友が撫でてくれる。怖かったよね、大丈夫だからね。がその優しい声を辿って縋り付くと、日向が聞えよがしに溜息をついた。

「わかってるよ」
「取り敢えず、さんは着替えなきゃ」
「体育の授業で着るジャージ、あるだろ」

は若島津にしがみ付いたまま、こくりと頷く。元々小さな少女なので、こうしてみると小学生みたいだ。日向は指先で恋人の頬を突き、呆れたように苦笑した。

「小次郎、怒ってる?」
「いや、怒ってはねぇよ」
「ほんとに?」
「ああ。でも、今度からそんなギリギリまで我慢するんじゃねーぞ」
「はぁい」

一先ず、寮の部屋にを連れて行って着替えさせることを若島津と決め、三人は教室に着替えのジャージを取りに戻った後、校舎の外に出る為に先程の女子トイレの前を通る。やはり、女子生徒の啜り泣く声が幽かに聞こえるのだった。

さん、大丈夫?」
「う、ん……」
「一度トイレに寄ってスッキリしたほうがいいかと思ったけど、無理そうだね」
「あ、お手洗いならもう大丈夫だよ」
「それならいいけど」

寮に着くと、日向はてきぱきとの体の濡れた部分を拭っていく。ぶつくさと文句を言われながらではあるけれど、は安心して自分の身を委ねていた。こうして明るい室内にいると、さっきの出来事なんて、夢だったのではないかと思われる。

「小次郎、慣れてるのね」
「まあな、弟も妹も小さかったから」
「そっか」
「ああ。ったくお前も派手に漏らしやがって。もう高校生だろ」
「そんなこと言わないでよぉ」

は再び涙目になって恋人を見上げた。若島津が傍らで彼女の肩を持つ。

「仕方ないよ。なんか、近寄れない雰囲気だったものな」
「うん……」

はふと、あの女子トイレで暴行を受けていたと思われる生徒はどうしただろうかと考えた。どうか無事に逃げ果せていて欲しいのだけど。

……?」

気付けばジャージのズボンまで穿き終えていて、換えの下着がないため剥き出しになった割れ目に、硬い布の感触が痛いくらいだった。

「うぅん、なんでもないの……」

逃げ出したことへの罪悪感に思わず涙を零したら、日向は自分が叱ったのが原因でが泣いているのだと勘違いしたようだ。若島津にも非難がましい視線を向けられ、「ああもう悪かったって」と言いながら小さな子供をあやすように彼女を抱き締めた。

「家まで送ってやるから」
「うん」
「お義母さんにも俺からちゃんと説明するからさ」
「あ、ありがとう……」
「だからもう泣くなよ、女子トイレで見たことは忘れちまえ」
「うん……」

は恋人の胸に顔を埋めて洟をグズグズ言わせながら、瞼の裏に焼き付いて離れない光景に蓋をするよう、一つ大きく頷いた。

ある動画を見ていて思い付いた作品。