「歪み」―『妹はアイドル』シリーズ

小学生の頃にファッションモデルとしてデビューしたは、今や全国民の間で知らぬ者がいないほどの人気女子中学生になっていた。
本業での多数の誌面への登場は勿論、CMやドラマ、バラエティ番組にもたびたび出演しており、女子学生のカリスマ的存在の少女だ。
けれどそんな彼女も、ライトの当たらない場所では普通の女子中学生。東京の実家に近い私立校に在籍し、学園じゅうの人気者でもある。抜群に可愛らしい容姿に明るい性格、加えて父親は有名人で生家はお金持ち。にも関わらず、そういった面を鼻にかけたところが微塵もない。は学園の、いや全国の男子の憧れで、女子の理想となっている存在なのだ。
ただ、最近の彼女は少し元気がない。というのは、仕事がハード過ぎて体力的にも精神的にも少々疲れているのか、情緒不安定なのである。仕事はこれまでと変わりなく精力的にこなしているのだけど、家に帰ると別人のようだ。家族の前で明るく笑顔で振る舞っていたかと思えば、急に泣き出したりする。一緒に住んでいる母親と姉は、そんなのことを心配していた。





その日はちょうど、普段イタリアで暮らしている父親が帰国する日だった。母親は勿論、空港まで迎えに行っているが、姉妹は学校があるので泣く泣く諦めたのだ。久しぶりの一家四人揃っての食事ということで、は授業が終わるとまっすぐ家に帰ってきた。

「お、。元気にしてたか」
「パパぁ」

玄関まで出迎えにきてくれた父親に甘えて抱き付く。母親に似て身長があまり伸びなかったは、とても中学二年生には見えない。

から、が仕事で疲れてるって聞いて心配してたんだけど」
「大丈夫だよ、は。お仕事楽しくやってるし、元気だもん」
「そっか、それなら良かった」

小さな娘の体を父親は愛おしそうに抱き上げる。彼は容姿が妻に生き写しであるを溺愛していた。は一つ年上の姉と二人姉妹だが、彼女が嫉妬するほど父はに甘い。そしてもパパ大好きっ子である。
イタリアの名門クラブチームでプロのサッカー選手として十五年近くプレーしている父は、彼女から見ても格好良い。母親とは熱烈な恋愛結婚だったそうだが、同じ時代に学生生活を送れなかったことが悔やまれるほどだ。

「パパ、今度はどれくらい日本にいるの?」
「ワールドカップの日本代表に選ばれたから帰ってきたんだよ。だから大会が終わるまではこっちにいる」
「やったぁ」

腕の中で無邪気な笑顔を見せるに、父は優しく笑う。幸い、この先はしばらくの間、撮影の仕事も緩やかなスケジュールが組まれている。学校が終わればまっすぐ家に帰ってこられるから、パパに存分に甘えよう。が抱っこされたままリビングに入ると、先に帰っていた姉が微かに嫌そうな顔を見せたが、構うものか。

「もう、ちゃんったら。パパのことが本当に大好きなんだから」

母親が苦笑交じりに二人を眺めて口を開く。それでも夫婦の間で、の様子がおかしい、という話は出ていたのだろう。心配そうにそっと目配せする母親を見て、自身は「どうしてそんなにわたしのことを心配しているんだろう」と不思議に思ったけれど、二人の心配の種をすぐに思い知らされることになる。





最初の異変は、夕食の時に起こった。一家四人で自宅で食事を摂るのなんて本当に久しぶりなので、母親は腕を振るって得意料理を食卓に並べている。サラダ、肉厚のステーキ、凝った野菜のスープに焼きたてのバゲット。いつもは食欲をそそるそれらの食べ物が、今日のにはどこか重たく感じる。それでも母親の料理はレストラン並みに美味しいので、積極的に口に運んでいた。

(う……、でも、なんか苦しくなってきたかも)

無理やり飲み込もうとするのだけど、喉に痞えたような感覚がある。次第に上手く飲み込めなくなり、口の中に食べ物が蓄積されていった。ハムスターが頬袋にエサを溜めているような状態だ。必死に飲み下そうとしても、押し戻される。

(出したい……)

咄嗟に口元を両手で覆った。このまま口の中に入れていては、きっと吐いてしまう。

ちゃん?」
「大丈夫か?」

向かいに座る両親が、の様子がおかしいことに気付いて口々に声をかけた。

ちゃん、お腹いっぱいなら無理して食べなくていいのよ」

母親の言葉にぎこちなく頷くけれど、今、口中に入っているものも飲み込めない。トイレに行って吐き出そうか、とも考えたが、この頃になると胃からせり上がってくる気持ちの悪さは隠しようがなく、今すぐにでも咀嚼しているものを出したい一心だ。

「う、うぅ……」
、大丈夫?」

隣に座る姉が身構えたのが気配でわかる。お姉ちゃんティッシュ取って。そう頼みたいのに、口を開けられない。

(やっぱり飲み込むしかないのかな……)

ごくりと一気に飲み下すしかないのでは。しかし、この判断が完全に間違っていた。飲み込もうとしたのよりも大きな力で、食べ物が押し戻されてくる。

「ぅぐっ……」

慌てて口を開くと、ボタボタと鈍い音を立てて、噛み砕かれた肉や野菜の塊が、テーブルの上に落ちていった。それはとてもグロテスクな見た目で、隣に座っていた姉が小さく悲鳴を上げる。

「きゃっ……」
、大丈夫か!?」
「わたしティッシュ取ってくる」

母親がパタパタとボックスティッシュを取りに行っている間、父はに駆け寄ってきて、背中を擦ってくれる。

「我慢しないで全部出していいから」
「う、うえぇぇ……」

テーブルに突っ伏すようにして、口の中の物を全て吐き出した。動悸が激しい。綺麗だった食卓は一瞬にして、目を背けたくなるような惨状に変わっている。

ちゃん、これでお手々拭いて」
「ご、ごめんなさい……」
「ううん、ママのほうこそごめんね、気付かなくて」
達は飯食えよ。俺がを看てるから」

父親はそう言って、をダイニングテーブルから立たせるとリビングに連れて行った。濡らしたタオルで、汚れた手や口元を拭いてもらう。テーブルは母親が始末してくれたようだ。後で姉にも謝っておこう。

「大丈夫か、
「うん……」
「気分悪くなった?」
「うん、急に……」
「そっか、やっぱり疲れてんのかもな」

そんな時に脂っこいもの食ったから胃が受け付けなかったのかな。独り言のように呟く父親の声を、ぼんやりとした思考回路で聞く。

「今日はもうゆっくり休めよ」

頭を撫でてくれる父親の声は優しくて、は泣きたくなった。けれどもこれ以上心配をかけるわけにはいかないと、こくりと頷く。
でも一人で眠るのはなんだか心細い。自分で思っているよりも身体は弱っているのかもしれなかった。

、一人で眠りたくないよぉ」
「どうしたんだよ、急に」
「わかんない……」

父親の洋服を掴んでしがみ付く。これじゃただの駄々っ子だ。けれど自身も、無意識の内に甘えた態度を取ってしまう。

「でも一人でお部屋に居たくないんだもん」
「具合悪くて弱気になったか」

すぐに治るから、大丈夫だからな。父親はそう言って、の小さな体を抱き締めてくれる。

「小次郎、ちゃんのお部屋から毛布持って来てあげたら。ソファで暫く寝かせてあげましょうよ」
「それがいいな」

母親が口をもぐもぐさせながら助け舟を出してくれた。

「つか、はなんでこんな時に、悠長にメシ食ってられるんだよ」
「だって体力付けておかないと、ちゃんの看病だってできないのよ」
「まあ、そりゃそうだな」

両親のやり取りに姉がくすっと笑っている。

、ママが言うようにソファで暫く横になったらどうだ」
「うん、そうする」

パジャマに着替えるついでに毛布を取りに行こうと、父親と連れ立って二階の自室へと向かった。今日は学校から帰ってすぐにシャワーを浴びたから、このまま風呂に入らなくても問題ない。

(久しぶりに、ゆっくり眠ろう……)

ひたひたと体中に浸透してくる得体の知れない恐怖心は怖いが、きっとそれも体調不良によるものなのだろう。普段が風邪一つ引かない健康優良児なので、少しでも調子が悪くなるとたちまち参ってしまう。
階下に降りると、食事を終えたらしい母親がいそいそとソファの周りを片付けてくれていた。

ちゃん、あんまり具合悪かったら、明日は学校はお休みしましょうね」
「はぁい」

リビングのテレビでは、が広告塔を務めるスポーツドリンクのCMが流れている。画面が切り替われば、またもやが制服を着た大手学習塾のCM。父親が感心したように溜息をついた。

「すげーな、ばっかじゃん」
「ほんと。おかげで我が家の家計は大助かりよ」

母親が冗談めかして答えているけれど、父親の年俸と自身の稼ぎを併せると一体どれほどの金額になるのかはにもわからない。それでも二人とも、いつ仕事がなくなるかわからない職業なので、母親はまめに倹約しているようだ。

「そういえば、若島津とタケシと松山がのサイン欲しいって」
「へえ、ちゃんのファンなの?」
「まぁ、本人達もそうなんだけどさ、あいつらの息子が大ファンらしくて」
「うん、、書くよ」

安請け合いしたら十枚分頼まれた。具合が良くなってからでいいからな、と父親は言ってくれるけれど、プロ根性なのか、どんなに辛くても張り切ってしまう。書き終えた色紙を手渡して、倒れ込むようにソファに横になった。毛布に包まっていると、いつの間にか深い眠りに落ちていた。





目を覚ましたのは、腰の周りに妙な冷たさを感じたからだ。はっと目を開けると、リビングはまだ明るく、テレビからはお笑い芸人のコントが聞こえてくる。コの字型に配置されたソファの一辺では両親が仲睦まじく寄り添い、番組を見ながら楽しそうに笑っていた。

「あ、ちゃん、目が覚めた?」

もそもそと体を動かしていると、母親がぱっと表情を輝かせる。

、少しは気分良くなったか?」

父親もソファから立ち上がり、愛娘のほうに近寄った。

「う、うん……」

笑顔で頷きながら、まさか、という思いがの体をソファに縛り付ける。

(このお尻の冷たさって、オネショだよね……?)

毛布の中にそうっと手を忍ばせてみると、ぐっしょりとまでは行かないが、パジャマのズボンが濡れている感触がある。全部ではなく、少し漏らしてしまったということだろうか。本革のソファに水溜りができている形跡はない。

「どうしたんだよ、なんかそわそわして」
「え、あ……」
「どこか痛いのか?」

はふるふると首を横に振る。

(どうしよう、中学二年生にもなってオネショしたなんて、言えない……)

けれどいつまでも隠し通せるものでもないだろう。パパとママ、どちらに言えば良いのだろう。二人とも怒ったりしないだろうか。
は意を決して、「あ、あのね」とたどたどしく口を開いた。

「ん?」
「その、パパ、怒らない……?」
「怒るって、何を」
「あのね、、今ちょっと眠っている間に……」
「うん」
「おしっこ、しちゃった」
「え」

ソファにしどけなく座っていた母親もがばっと身を起こす。

「やだ、そんなことなら早く言わなきゃ。風邪引いちゃうじゃない」
、毛布捲ってもいいか?」
「う、うん……」

毛布を取ると、アイボリーのパジャマの濃く染まった股間が露になった。ショーツはぐっしょり濡れているので、もっと酷い事になっているかとヒヤヒヤしたが、想像していたほどではない。

「寝る前にトイレ行かなかったからな」
「とにかくちゃん、下着とパジャマ着替えなさいな」
「あ、はい……。ごめんなさい……」
「そんな畏まるなって、が大人しいと調子狂うだろ」

ちょうど、風呂に入ってきた姉がホカホカと湯気を纏いながらリビングに戻ってきた。

ちゃん……」

下半身だけ濡れたパジャマを見て事態を悟ったのだろうけど、流石に姉は揶揄うようなことはしない。そっと目を伏せて見なかったことにしている。その無関心が今のには有難かった。

「小次郎、わたしがソファの掃除してるから、ちゃん着替えさせて」
「ああ」

一旦、トイレで残りも全部出しちゃおうな。は手を引かれてトイレに向かいながら、幼児に戻ったようにこくりと頷く。
トイレの前で濡れたズボンと下着を膝まで下ろしてもらう。蟠っていた尿意を解放したら、結構長い時間放尿が続いた。これを全てソファに漏らしていたらと思うと恐ろしい。

、服脱いでこれ巻いてろ」

大判のバスタオルを渡されて、腰回りを覆う。濡れたズボンとショーツはその場で脱いだ。バスルームに連れて行かれると、体調が悪く動きがもたくさしているに代わり、父親が汚れたところも全て綺麗にしてくれた。新しい下着とパジャマの乾いたサラリとした感触が心地良かった。

「このままだと夜中も心配だから、小次郎はちゃんのお部屋で寝てあげて」

リビングに戻ると、母親が父親にそう告げた。あなた明日練習休みでしょ、と。

「俺はいいけど、は?」
「パパと一緒がいい」
「じゃあパパと一緒に寝るか」
「うんっ」

視界の端で姉がそっと目を伏せるのがわかった。優しいお姉ちゃん。優等生で綺麗で両親の自慢のお姉ちゃん。はいつになく幼い姉の横顔に少しだけ胸が痛んだけれど、見なかったふりをして父親の腕にぎゅっとしがみついた。

少しずつ壊れていく妹ちゃんのお話を書こうと思いました。