演技

午前五時から午後十時過ぎまで動きっ放し。そんな毎日が、ここ二週間ほど続いていた。

(や、やっと明日はお休み……)

は女性マネージャーの運転する車に揺られながら、疲労の為に上手く働かない思考回路で、呪文を唱えるようにして同じことを考えている。

ちゃん、疲れたでしょう」
「うん……」
「今日は早く休んで、明日もゆっくり疲れを取ってね」
「ありがと」
「じゃあまた明後日、午前八時に迎えに来ますから」
「はい、宜しくお願いします」

自宅の前で、国産のセダンのドアがバタンと音を立てて閉まった。

(や、やっと終わった……)

は泥沼の中を足掻くように、重たい足を一歩一歩前に運びながら玄関のドアを開ける。


ちゃん」

おかえりなさい、と出迎えてくれた両親の顔を見たところで、安心したのか、ぷつりと意識が途切れた。





目の前で糸の切れた操り人形のように倒れた愛娘を見て、は悲鳴を上げた。

「きゃー、ちゃん!?」
「大丈夫か、!?」

慌てて日向が抱き止め、小さな体を掬い上げる。学校指定のローファーを脱がせ、本革の鞄をに渡して、を所謂お姫様抱っこすると、リビングへと運んだ。

「ただ寝てるだけみたいだぜ」
「それならいいんだけど」

日向の腕の中で、はすやすやと寝息を立てている。急に倒れたので何事かと思ったが、熱もないし鼓動も規則的だ。よく見ると、小さな指が無意識の内に口元に吸い寄せられていた。

「なんかこうして見ると、赤ん坊の頃と変わらねぇな」
「疲れてるんでしょうね、休む暇もなかったから」
、制服の上着だけでも脱がせといてやったら?」
「うん、そうする」

でもこのまま寝かせるとスカートのプリーツが皺になっちゃうわ。はそう呟き、乱暴にの肩を揺すった。

ちゃん、一回起きて!!」
「お、おい……!」
「ふみゅぅ……」

は、テレビに映っている時からは想像も付かない程あどけない表情で、眠たげな瞼を持ち上げる。

ちゃん、お着替えしましょう、ね」
「んー……」

制服を脱がしてパジャマの上下に素早く着替えさせた。は睡魔に勝てない様子で、まるでマネキンに対峙しているかのようだ。

「と、取り敢えずこれで大丈夫……!」
「ベッドに寝かせるか」
「そうね、そっちのほうが落ち着いて眠れると思うし」

日向は大きな米袋くらいの重さしかない娘を抱き上げ、と一緒に階段を上った。
トップアイドルっていうのも大変だな。
ほんとねぇ。
どこまでも呑気な夫婦の会話である。

「ゆっくり休めよ、
「おやすみなさい、ちゃん」

人形をガラスケースの中に安置するかのように、日向は清潔なシーツの敷かれたのベッドに彼女をそっと寝かせた。額にかかる前髪を指先で払うと、愛妻にそっくりの顔が宵闇に浮かび上がる。

「ほんと、にそっくりだよな」
「えー、そうかな?」
「生き写しじゃねーか」
「じゃあなんでわたしはアイドルになれなかったんだろ」
「お前がスカウトを断り続けたんだろ。お義母さんがそう言ってたぜ」

暫く二人でまじまじと娘の寝顔を眺めた後、静かに部屋を辞した。

「わたし達もそろそろ寝よう」
「そうだな」
「小次郎も明日休みでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、今夜はゆっくりできるね」

の隣の部屋が夫婦の寝室である。日向とは、出会って二十年余りが経った今でも学生時代と変わらず仲が良い。
はベッドに入る直前、唐突に口を開いた。

「ねえ小次郎、あなた今でもわたしのことお姫様抱っこできる?」
「できるんじゃねーの」
「ええー、やってやって」
「ちょ、おま、大声出すなよ、が起きるだろ」

きゃあきゃあ騒ぐを横抱きに抱え、さっきのと同じようにそろそろとベッドの真ん中に置いてみる。

「ほら」
「すごい、なんだかドキドキしちゃう……」

それはこっちの台詞だ、と日向は思わず息を呑んだ。夜の闇に沈む藍色の部屋の中、白いレースのネグリジェは黄泉の国へと旅立つ為のドレスみたいで、の作り物じみた顔と合わさると、この世のものではないような雰囲気を醸し出している。ベッドは、薄く月明かりの射す海に漂う小舟。微風に揺れるネグリジェの裾、瞳を閉じたの顔がとても幻想的で、その光景に酩酊を覚えながら口づけを落とした。





は夢の中で、自身の在籍している東邦学園中等部の校舎にいる。教室からグラウンドを眺めている自分を、もう一人の自分がどこからか眺めていた。彼女の視線の先ではサッカー部の練習が行われているのだが、指示を出しているのはキャプテンの大空疾風ではなく、テレビやビデオで何度も見たことがある十代の頃の父だ。

(え、パパがなんで……)

確かに東邦の卒業生だけど。東邦学園中等部のサッカー部を史上初の優勝に導いたのはパパだけど。
ああ、それにしても格好良い。ちゃんもそう思うでしょ?
声がして思わず隣を振り向くと、全く同じ顔がそこにはあった。

(この人、ママだよね?)

にこにこしながらに話しかけているのは、間違いなく母親で、「うん、とってもかっこいいね」と二人は親友同士のように笑い合っている。

(そっか、二人はこんな学生時代を送ってたんだ……)

夢の中で、は「日向くんに恋する少女」だった。でも彼女がいるから報われない、という設定らしい。不意に泣けてきて、「ごめん、わたしちょっとトイレに……」と涙を悟られないよう、見覚えのあるホテルのお手洗いのような内装のトイレに駆け込んでいる。ついでに用も足しちゃおう。洋式のトイレに座り、下着を下ろして力を抜いたところで目が覚めた。

「やっちゃった……」

中学二年生になって、オネショしてしまうとは。

(疲れてたもんなぁ……)

まだ漏らしてしまったばかりなのだろう。肌に纏わりついてくる下着やパジャマの感覚は温かく、生温いお湯の中に浸かっているようだ。

(明日の朝これ見たら、ママもパパも怒るだろうなぁ)

けれどここまで派手に失敗したものを、隠すことはできない。それならば。

(ええい、まだ残っている分も出しちゃえ)

少し力を込めると、チョロチョロと残りのオシッコが放出される。わざとお漏らししちゃうなんてなんだか小さな子供みたいだ。

「おしっこ、しちゃった……」

わざと呟いてみた。そういえば小学生の頃、いじめられてお漏らしする女の子の役を演じた記憶がある。実際に本番では我慢していたオシッコを漏らして、あまりの恥ずかしさに演技ではなく涙目になってしまった。

(やっぱり恥ずかしい……)

膝を抱えると、鼻につくアンモニアの臭い。しかもあの時は、父子家庭に育った小学校低学年の児童役だったので、父親役の男性俳優さんから本物の幼児に接するみたいに世話をされた。

―――学校でちっちしちゃ駄目だろぉ、あーたん。
―――だって、あーたんがまんできなかったんだもん……。

そこで少女は自らスカートをたくし上げ、濡れたショーツを父親に見せる。今思えば何と大胆な描写をした作品だったのか。

(ああでも、パパになら言われてみたいかも……)

優しく、だけどちょっとだけ叱られてみたいかも。
時間が経つにつれ、冷えてきた下半身が寒気を起こす。このままだと風邪を引いてしまう。思わず身震いしたら、同時にまた少しオシッコが零れた。

「あ、はぁ……」

もうシーツはぐっしょり濡れて、部屋全体にツンとした匂いが漂っている。妄想している場合ではなかった。
とにかく着替えなければ。そして、このシーツもどうにかしなければ。

(疲れてたの、ってオネショしていい理由になるのかなぁ)

は濡れた下半身を隠そうと、薄手のブランケットを体に巻き付けて部屋を出た。自分ではどうしようもないことに気付き、恥を忍んで隣の部屋の両親を訪ねることにしたのである。

(あの時みたいに、ちょっと可愛く言ってみよう)

数年前のあの時、演技したみたいに。
だって疲れてたんだもん。ちっちいっぱいしちゃったの、わからなかったの。


控えめなノックの音が聞こえて、日向とは慌てて体を離した。

「パパ、ママ……」
?」

動揺を隠せない日向と、そそくさパジャマの襟元を正している。だが、中学一年生になったばかりのには、まだその行動の意味するところがわからない。

ちゃん、どうしたの、雪山で遭難したみたいな格好して」

頭からブランケットを被っている娘に、は心臓の鼓動が速くなっているのを悟られないように声をかける。全身がすっぽり覆われているので、濡れているパジャマも見えない。フードの形に頭に巻き付けられたダークブラウンの毛布の隙間からは、白く小さな顔がちょこんと覗いているだけだ。

「あのね……」
「うん」
、寝てる間にちっちいっぱいしちゃってたの、わからなかったの」
「ええっ!?」

ごめんなさい、と泣き崩れたに、一拍置いて意味を理解したが素っ頓狂な声を上げ、日向がパタパタと駆け寄る。

「大丈夫か、
「うぅん、こんなにびっしょり濡れてるの……」

たくさん出ちゃったの。疲れてたからかなぁ。
ブランケットを捲って見せる。
最早、にもどこまでが素でどこからが演技なのかわからない。ただ父親に甘えたい一心で縋り付くように腕を伸ばした。拒まれることはなかった。

ちゃん、先ず濡れた下着とパジャマ着替えましょう、ね」
、お前シーツ換えといてやれよ、俺は着替えさせてくるから」
「わかった、お願い」
、毛布置いて行こうな、濡れるから」

わかったぁ、とたどたどしく答える自分の声が、作り物なのか本心から出たものなのかもわからない。

「あーあ、こんなに体が冷えて……。一度、熱めのシャワー浴びたらどうだ」
「うん、そうする」

こくりと頷いて、は改めて父親を見上げた。夢の中では同じクラスだったんだよ、パパも、ママも。もしかしたらそんな運命もあったのかもしれないけれど、そうしたらこんな風には甘えられなかっただろうから、やっぱり自分は娘で良かったとは思った。
尚、の演技が父親的には可愛かったらしく、この後暫く粗相する度に、「こないだと同じように言って」と頼まれるのは、また別の話である。

無駄な描写が多過ぎた気も……(汗)。